VOICE

海外生活サプリHOMEMESSAGE:先輩からのメッセージ>国際緊急援助隊(JDR) 大友 仁氏

先輩メッセージ / Message15:国際緊急援助隊(JDR) 大友 仁氏

青年海外協力隊員から、協力隊の調整員・緊急援助の業務調整員にはどういった経緯でなったのですか?

実はフィリピンから帰国してきて、“逆カルチャーショック”にあったんです。フィリピンでは乗り合いの三輪車で8㎞かけて仕事場に行って。すべて工夫をしながら生活をして。ある意味、何もなくても生活することができました。でも日本にはいろんなモノがあふれかえっているんです。「何でこんなにモノがあるんだろう?」「物質社会は間違っている!」って、ちょっとした反抗期みたいなものになってしまったんですよ。

実は途上国の協力隊から帰ってくると、多かれ少なかれ、逆カルチャーショックにかかるみたいですよ。途上国に行く時には、ある程度予習をしているので、そこまでギャップを感じることはないけれど、日本に帰ってくるとものすごくショックを受けてしまう。それで私も前に進むことができなくて。どうしようかな、と考えているうちに、隊員を訓練する施設で働くことになって。そのうちたまたま「調整員という仕事があるけど、やってみないか」というお呼びがかかったんですよね。だからそこまで強く意識して、調整員という仕事に就いたわけではないんですよ。その仕事を続けているうちに、トラブルに強そうだということで緊急援助隊に入ったわけです。

実際に災害などが起こった時には、どのような連絡が入るのですか?

世界で地震が起こると、アメリカ地質学研究所から携帯電話に情報がメールで送られてくるんです。場所はどこで、マグニチュード6.9で、深さはどのくらいという情報がすべて入ってくるんですよね。その時点で、この程度の規模なら支援の要請はこないな、とか、これはちょっと行かないといけないな、と、ある程度自分でシミュレーションをします。この予想がはずれると困るのですが、経験上はずれることはまずないですね。

ただ、ハイチで地震があったときは、ちょっと微妙でしたね。果たしてPKOが入っている国から要請が来るだろうか、でもこんなに大きい地震なら行かざるをえないかもしれない……。まあ、でも、どっちかわからないというときには、もう荷物をスーツケースに詰めているんですよ。それで翌日、スーツケースを持って早目に会社に出たら、「大友君、何しているの?」って言われて。「PKOが入っているから、要請はないんじゃない?」なんて話をしていた、その2時間半後に「やっぱりハイチに行ってくれないか」と言われましたからね。そのときにスーツケースを持っていたのは、自分だけでしたよ。

そういうときはどういう経路で行くのですか?

ハイチの場合国際空港が動いてなさそうなので、まず隣の国に民間機で行って、そこから陸路で入りました。荷物も下着7組とTシャツ3、4枚程度。小型のキャリーバッグ1個で行きますよ。

最初はどこに宿泊するんですか?

ホテルがあればホテルに泊ります。よく「何で救助活動しに行くのに、ホテルに泊まるんだ」って批判されるのですが、我々は一流、二流、三流ホテルが使えるんだったら、必ず一流ホテルを使います。日本であれば、たとえ三流ホテルでもお湯がきちんと出てきれいな部屋が用意されますが、海外で三流ホテルを選んだら、水さえ出ない部屋だってありますから。何を持って一流、二流と言うかはわかりませんが、体を休めることができるホテルがあるのであれば、きちんと休みましょうというスタンスですね。それは贅沢がしたいからではなくて、しっかり体を休めたいからです。逆にもし野宿しかできないような地域であれば、野宿をしますよ。

現地に入ってから、具体的にどんなことを行うのか教えてください。

まず二次災害の危険性や、治安の問題の判断ですね。それから救助チームであれば、どこで救助活動をするのか、また救助に値する人がいるのか。医療チームだったら、病院は動いているのか、動いていなければどこで治療がされているのか、治療の手は足りているのか、患者を搬送する先はあるのか。それから物資を補給するルートがあるのかどうか。そういったことを調査し、判断していきます。でもそれは会議をして決めている暇がない場合もあります。

その判断は調整員に任されるわけですね。

調整員が判断するわけではありませんが、判断に必要な材料を集めるとともに、必要があれば判断を促します。ハイチのときは、最初「首都で救援活動をやってください」と言われたんです。それはなぜかと言うと、被災者が一番多くて、しかも一番注目を浴びている場所だからですね。でも自分の勘所としては、被災が広範であり、地方の被災地には、支援が何も入っていない場所があるはずだという認識がありました。

それに、どこに行ってもそうなのですが、地方のほうが隊員の安全性は確保しやすいんですよ。やはり都会よりは田舎の人のほうが、気がいいんですよね。それで地方で支援の拠点にふさわしい場所を探していったところ、瞬時に「ここだ」と。泊まる場所もある、テントが張れる場所がある。ちょうどそこは看護学校だったのですが、すぐに校長に話をつけましたよ。「明日、絶対に支援のチームを連れてくるから!」と約束をした後で、調査チームを説得し場所を決定しました。自分ひとりで突っ走った判断ではあったのですが、今考えてみても、我々が拠点をおいたところというのは、非常に恵まれた場所でした。僕らの後には自衛隊がそのままその場所を引き継いで、それから日赤も引き継いだそうです。いろんな人からいい場所を取ったと感謝されましたが、確保できた理由としては、やっぱり経験と勘所が働いたおかげですよね。

思い入れのある品

実際に使っている携帯電話です。地震があると、この携帯にアメリカの地質学研究所からメールが入ります。一応、海外でも使える携帯電話ですけど、使える時のほうが少ないですね。それからストラップについているのは、マウストゥマウスのときに直接口をつけずに息をふきこめるフェイスガードです。