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先輩メッセージ / Message15:国際緊急援助隊(JDR) 大友 仁氏

国際緊急援助隊(JDR)の援助チームや医療チームが、災害現場で最大限に力を発揮するための環境を整える業務調整員。今回は、業務調整員として世界中の災害現場で活躍している大友仁さんにインタビュー!なかなか世間には知られていない業務調整員という仕事や、そのやりがいについてお話を伺いました。

PROFILE

大友仁(おおとも ひとし)

1986年、茨城大学農学部卒業。1986年から89年まで青年海外協力隊員としてフィリピンに赴任。1992年より青年海外協力隊調整員としてフィリピンやインドネシアに赴任。2000年には国際緊急援助隊事務局に勤務し、インドネシア、エルサルバドルなどでの地震被害の救援救助チーム・医療チームの調整員として活躍。2003年に内閣府国際平和協力本部事務局を経て、2005年には再び国際緊急援助隊事務局勤務へ。パキスタンやインドネシア中部ジャワの地震、ミャンマーのサイクロン、インドネシア西スマトラ沖地震、ハイチの地震などの被災地で業務調整員として活躍している。

まず業務調整員という職業がどのようなものなのか、簡単に教えていただけますか?

簡単に言えば、医療チーム・救助チームがスムーズに活動するための環境を整えるのが業務調整員の仕事です。たとえば海外で仕事をするには、仕事をする場所を確保して、その土地の地主や国などに許可をとらないといけません。そういった交渉事は、すべて業務調整員の仕事。もっと具体的に言うなら、野外でテントを張って活動をしているときに、直射日光を遮るためにブルーシートを張ったり、足りない物資を調整したり。こう言ってはなんですが、雑用全般が業務調整員の仕事ですね(笑)

縁の下の力持ちなんですね。

そうですね。とは言っても、緊急援助隊員みんなの共通認識として、業務調整員の仕事がミッションの成功を大きく左右するという思いを持っています。だって医療チームや救援チームの方たちは専門分野の方たちですから、環境さえ整えれば、必ずいい仕事はしてくれるんです。しかしながら環境が整っていなければ、どんなにプロの方でもきちんと能力を発揮することはできない。専門家たちが能力を発揮できるか否かは、業務環境整備にかかっていると言っても過言ではありません。

1回の派遣ではだいたいどのくらいの調整員が現場に行くのですか?

だいたい5~7人の調整員で20~60人くらいのチームを見ます。もちろんドクターが物資を運ばないかと言えばそうではないし、救助の人がお湯を沸かさないかと言えばそうではない。手が足りなければ、医療や救援のプロである彼らだって、そういった雑用をやってくれます。ただし、それを率先してやるのは、私達業務調整員ですね。

大友さんは業務調整員として働く以前は、青年海外協力隊に参加されていたそうですね。そもそも青年海外協力隊に参加した理由はなんだったのですか?

小さい頃、テレビでやっていた「すばらしい世界旅行」という番組が好きだったんですよ。それで将来的には海外で仕事をしたいな、と思うようになって。本当にありふれた理由です(笑)。人助けがしたいというよりは、海外に行くために青年海外協力隊に志願をしたという経緯ですね。

ただ、行って帰ってくるまでは思い出せなかったのですが、家で部屋の荷物を整理していたら、たまたま小学生の時に書いたエチオピアの飢餓難民についての作文があったんです。その作文には、エチオピアの石油と日本の水を交換できればいいのにな、なんてことが書いてあったんですよ。ま、実際エチオピアでは石油は採れないのですが、物を知らない子供だったんですよね(笑)。自分では何も意識していなかったのですが、小さい頃に抱いた思いと言うのはどこかでつながっているんでしょうね。

最初の派遣はフィリピンだったそうですが、そのときのことを覚えていますか?

覚えていますよ。私は農家の息子だったので、大学では畜産学科を専攻していたんです。それで大学を卒業してすぐに協力隊に参加して、いきなりフィリピンの高校と大学で畜産技術を教える講師ですからね。もう、まったく実力がないんですよ。1時間授業で教えるのに4時間予習が必要で。かろうじてコミュニケーションはとれるけれど、相手をやる気にさせたりすることまではできない。空回りの連続でした。

フィリピンでは、学生たちにどんなことを教えていたのですか?

畜産の概論だったり、山羊の角を切る実習だったり、動物の病気の治療法だったり、いろいろ教えましたね。それから学生たちを連れてのエクステンションワーク(学外活動)も行いました。具体的にいえば、学生たちと一緒に外で狂犬病のワクチンを打ったりするような活動です。僕は教室での講義はあんまり得意じゃなかったから、実は学外活動のほうが楽しかったですね。

そのまま畜産の道に進まなかったのはどうしてですか?

要するに、悔しかったんですよね。私と一緒に派遣された人たちの中に、県庁を休職して来ている方がいたのですが、彼が本当に素晴らしい働きぶりだったんです。彼は植林のために山から水をひっぱって、同時にその山水を民家にも配れるようなシステムを作りました。すると民家の方々も、水をもらえるわけですから、植林のための苗床を作るのにも進んで協力してくれる。一方自分はと言うと、大学で授業を教えて、学生たちとお酒を飲むだけ。一体、自分は何をやっているんだろうと自問自答ですよ。それが本当に悔しくてね。このまま辞めることはできないと思ったんです。

私は農家の長男なので、いずれ農家をつがないといけないという気持ちもあったんですが、そうこうしているうちに、弟が「農家をつぐよ」と言ってくれまして。もう弟には脚を向けては寝られないですね(笑)。