先輩メッセージ / Message06:株式会社 静山社 松岡佑子社長
『ハリー・ポッター』シリーズ日本語版の版元、静山社の社長であり、同作品の翻訳者でもある松岡佑子氏。亡き夫が遺した出版社を引き継いだ松岡氏が、『ハリー・ポッター』と出会い、そして日本におけるベストセラーを記録するまで。その裏側には、小説よりも熱いストーリーがありました!
PROFILE
松岡佑子(まつおか ゆうこ)
1943年、福島県出身。1966年、国際基督教大学卒業。財団法人 海外技術者研修協会の常勤通訳を経て、フリーの同時通訳者に。1992年にモントレー国際大学院大学の客員教授に就任すると同時に、大学院に入学。国際政治学の修士号を取得する。1997年、出版社「静山社」の経営をしていた夫・松岡幸雄氏の死去にともない、同社の社長に就任。1998年には「ハリー・ポッター」シリーズの版権を取得。1999年には、第1巻『ハリー・ポッターと賢者の石』を翻訳し、大ベストセラーを記録。2008年には、最終巻『ハリー・ポッターと死の秘宝』を出版。シリーズ累計2400万部を超える大ヒットを記録する。現在では、スイスに拠点を移して活躍中。
―世界的ベストセラー『ハリー・ポッター』シリーズの翻訳を手がけた松岡さんですが、もともとは通訳としてご活躍されていたんですよね。まず大学を卒業後、通訳の職に就いたきっかけを教えてください。
私が国際基督教大学(ICU)を卒業したのは、東京オリンピックの翌々年の1966年のこと。本当は大学院に行く予定だったんですが、前の主人である松岡幸雄と卒業後に結婚することになりまして。生活するためにはお金を稼がないといけませんからね。大学院をあきらめて、就職することにしたんです。なんせ、松岡は生まれながらの哲学者で、お金を稼ぎそうにはない人でしたから。まあ、事実稼がなかったんですけれど(笑)。
そこで大学4年の夏休みに、学生部で求人を探したところ、海外技術者研修協会という財団法人が常勤通訳の募集をしていまして。もともと英語は好きでしたし、大学1年のときに運輸省の通訳案内業免許に最年少で受かったぐらいの英語力はありましたから、きっとできるだろうと思って応募したんです。それで採用されたというのが、通訳になったきっかけですね。通訳を目指していたというよりは、卒業して、就職して、それがたまたま通訳業だったという感じですよ。
大学では語学を専攻されていたんですか?
いえ、私は日本史専攻だったんですよ。大学で勉強することなんて、本当にあとで何の役にも立ちませんね(笑)。ICUは教養学部しかなく、その中の語学科に入ったんですが、18、9歳は多感なころでしょう? 語学だけでは、どうも満足できないと思ったんです。それで専攻を社会学と人文科学の中間に位置する歴史学に変えまして、近代日本政治思想史という訳のわからないものを専攻しました(笑)。でも結局、モノにはなりませんでしたね。だから本当に勉強したと思うのは、50歳近くになってモントレー国際大学院大学に入ってからですね。
モントレー国際大学院大学に入学する以前に、海外生活をされたことはあったんですか?
長期の生活経験はないですね。私が初めて海外に行ったのは28歳のときで、常勤通訳としてもずいぶん経験を積んだ頃。その頃、内部では一番上手な通訳だと言われていたんですが、それでも私は満足できず、日米会話学院の夜学に通って、同時通訳の勉強をしていたんです。そこの先生が非常に私を高く評価してくださって「アメリカで1ヶ月通訳の仕事があるから、行ってみないか」と勧めてくれたんです。それをきっかけに常勤通訳の仕事を辞めて、フリーの通訳としてアメリカに1ヶ月行きました。でも1ヶ月ほどなので、海外生活というほどではないですね。
通訳をする上で、海外生活がないということはデメリットにはならなかったんでしょうか?
いえいえ。語学を学ぶ上で、海外に行かなくてはいけないということはありませんよ。もっとも、海外でどっぷり浸かったほうが楽に学べるとは思いますけどね。でも私は完全に和製で、ある程度まで達成できたわけですから。
それに、会議の通訳など、私が仕事の場で使っていた英語は、非常に抽象度の高いもので、学問の世界においてもむしろ難しい単語を使いますから、生活に密着したような言葉はほとんど必要ないんです。むしろ、日本語のほうが重要なくらい。
もっとも30歳を過ぎてから、海外での生活経験がまったくないのは英語を生業とする上でまずいんじゃないかと思って、一度イギリスに短期留学をしているんですよ。正確には「留学」ではなく「遊学」ですね。通訳のことを忘れて自由に生活を楽しもうと思ったんですが、やはり私は性格が“ハーマイオニー”なものですから(笑)、勉強から離れることはできませんでした。外国人に英語を教える講座を受けてみたり、ロンドン大学の社会人講座を受けてみたり。6か月間、自分の好きなように勉強して、好きなようにヨーロッパを見て帰ってきました。
もともと努力家でいらっしゃるんですね。
そうですね。私と同時代の人というのは、向上心が強いんですよ。楽をしようという気持ちがあまりないんです。それに私は小さい時から、どんな場合でも一番だったので、人に遅れを取りたくないという気持ちが強いんですね。本当に“ハーマイオニー”と一緒。それに何と言っても、「知る」ということは楽しいことですからね。
その6か月の短期留学の後は、基本的に日本に滞在を?
はい。ただ、通訳の仕事で海外に出ることも多かったので、実際には1年の3分の1くらいは海外で過ごしていました。日本が拠点という意識はなかったです。
では50近くになって、モントレーに渡ったのは何がきっかけだったのですか?
1992年にモントレー大学院大学の客員教授として招かれたんですよ。もともと私の親しい友人が通訳翻訳科の学科長をしていたのですが、「1年間休暇をとりたいから、あなた、こっちに来てちょうだい」と言われまして。それで客員教授になったのはいいんですが、何も知らないまま日本語通訳翻訳科の学科長までやらされて(笑)。
しかも自分で教えるだけでは飽き足らず、学生として大学院に入学もしたんですよ。そろそろ昔の夢をもう一回思い出してみよう……つまり学問を続けてみようと。そこで国際政治学の修士号の単位をとりはじめたんですが、学科長プラス教授プラス生徒でしょう? あんまり忙しくて肺炎になったりもしましたね。
実際にモントレーで生活してみて、良かったなと感じることはありますか?
それはやっぱり、学生に戻れたということですよね。人間は、ある程度年をとってから勉強するほうが、本物の勉強ができると思います。頭と心がだいぶ練れていますし、大学の頃の何もわからない若造とは違います。その年齢で大学院に通うことができたのは、とても良かったですね。
松岡さんがモントレーに行っている間、ご主人は日本にいらっしゃったんですか?
ええ。松岡幸雄は、愛犬とともに日本でお留守番をしていました。松岡は日本ALS(筋萎縮性側索硬化症)協会の事務局長でもあり、小さな出版社である静山社の代表として、マンションの一室でほそぼそと仕事をしていましてね。一緒に行けるような状況ではなかったんです。
日本に戻られた後、ご主人が亡くなって、その後を継ぐ形で静山社の社長に就いたと伺っていますが。
はい。松岡幸雄は1997年の12月25日に肺ガンで亡くなりました。倒れてから6カ月、末期のガンだとわかってから1ヶ月で逝ってしまったんですけどね。病床で、「あんたには通訳というしっかりとした仕事があるんだから、儲からない静山社なんていう会社はつぶしていい」と、言い遺していたんですよ。