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先輩メッセージ / Message24:東京インターナショナルスクール代表  坪谷ニュウェル郁子さん

49カ国の子どもが通学し、入学希望者が殺到している「東京インターナショナルスクール」、27カ国の主として軽度発達障害などで個別の指導を必要とする中学生、高校生が通学する「NPOインターナショナルセカンダリースクール」、英語で21世紀型の地頭教育を日本の教育機関に提供する「日本国際教育センター」、3つの教育機関の今代表であり、国際教育家として活躍している坪谷ニュウェル郁子さんにインタビュー。留学体験やこれからの日本の教育についてお話を伺いました!

PROFILE

坪谷ニュウェル郁子さん(つぼや ニュウェル いくこ)

1957年生まれ。高校卒業後に渡米し、イリノイ州立西イリノイ大学国際学生科修了。早稲田大学卒。帰国後、英会話教室の講師を経て、1985年にイングリッシュスタジオを開校。1997年には幼稚園生から小中学生までが通う「東京インターナショナルスクール」、続いて、「NPOインターナショナルセカンダリースクール」を開校。英語を学ぶのではなく、英語で学ぶ独自のカリキュラムは、国内外の教育関係者からの注目を集めている。また、保育園、幼稚園、小中学、高校の英語教育のコンサルティングを行う日本国際教育センターの代表としても活躍中。

まず坪谷さんが代表をつとめる「東京インターナショナルスクール」の理念を教えてください。

私達の学校に通っている生徒は、その多くが大使館職員や外資系企業の駐在員の子ども達。日本にいるのは3~4年の短期間で、また別の国や自分の国に行ってしまうという場合がほとんどです。したがって、子ども達が次にどこの国に行ってもスムーズに転校ができるというのが、まずは基本にあります。

ただし、東京インターナショナルスクールには教科書はありません。生徒達にはひとり1台ずつノートPCを貸し出しており、生徒達はそれを使って自分で調べて、的確な情報を得て、それをもとに学んでいます。教科書の知識というのは、そこに書かれた時点で古い知識ですからね。半年で情報量が1.5倍となると言われている現代では、常に最新の情報を利用していくと言うのは当たり前のことですよね。

また私達の学校には、算数や国語、理科などの教科もありません。それでは子ども達がどうやって勉強しているかと言いますと、学校では1年間に6つのテーマを掲げており、それについてさまざまな方面から探求していくという方法をとっています。例えば「天気と地理が人間に与える影響とは」「雑草の必要性とは」といった議題について、生徒達はリサーチし、ディスカッションし、学んでいくわけですね。ただそれだけでは、生徒達は世界のアカデミックな基準に追い付けなくなってしまいますから、そこには必ず学術的な要素を盛り込んでいます。たとえば「雑草の必要性」を地理的に見たらどうだろう、数学的な観点から見たらどうだろう、国語的な観点から見たらどうだろう……。低学年だったらそこに掛け算や足し算といったスキルも盛り込んでいくし、高学年だったらそこに面積的の求め方といったスキルも盛り込んでいくわけですね。チャイムが鳴って「今から算数の授業です」というような授業ではないんですよ。

こうしたカリキュラムはどういう発想から生まれたのですか?

アメリカから帰ってきて、英会話学校をはじめたのですが、働く中でいろいろと"気づき"があったんですよね。私は英語を教えているけれど、本当に子ども達に教えるべきことは、生きる力なんじゃないか、生きる意味なんじゃないか……。そんなことを考えながら一人で作ったのが、全ての私が関わっている教育のカリキュラムの種になっているんですよ。

昔から、自分で世界を作ってしまうタイプだったのですか?

幼い頃から、変わった子だったそうですよ。母もそう言っていました(笑)。

その頃から英語や教育の仕事に就きたいとは思っていたのですか?

全然ですよ。ただ、うちの母は教育ママだったんですよね。実家は厚木基地に近かったので、3歳ぐらいの頃から基地で働く米国人が英語を教えに家に来てくれたりして。私も小学校6年生のときの作文には「将来は世界と日本のかけ橋になりたい」と書いていましたね。でも当時は、どんな仕事に就きたいかなんてことは、まったく意識はしていませんでしたよ。

まあ、思い返してみても、変わった子だったとは思います(笑)。私、小さい時からいろんなところをクビになっているんです。例えば教会をクビになっているし、お茶の教室もクビになっているし。教会なんて12歳でクビになりましたからね。教会の日曜学校に行っていたのですが、「イエス・キリストはユダヤ人なのに、なんでユダヤ教が異教なの?」って聞いてしまって。単純に疑問に思ったことを聞いただけだったのですが、それでクビになっちゃったんですよ。要するに、いろんなことに対して疑問を持ってしまう子だったんですよね。

そういう性格だと、学校からあぶれていったりしないですか?

そう。高校の時には、まさにあぶれていましたね。すごく優秀なエリート高校に進学したのですが、いつも私はポツンとしていました。修学旅行のときに「グループを作れ」と言われても、ひとりだけグループに入れなかったんですよ。しかも生徒だけでなく学校からも、無視されちゃって(笑)。自分では問題児ってつもりもないし、不良でもなかったのだけど、学校では規格外の生徒だったんですよね。

ただ私の親は、偉かったんですよ。母は、しょっちゅう学校に呼び出されるので、回数券を買っていたらしいの(笑)。10回分の金額で1枚お得だしね。それからどんなに呼び出されても、母親の口から「今日はこういう理由で呼び出された」とか「怒られた」とか言われたことはありませんでしたね。

留学を決意したのはなぜですか?

結局、高校は偏差値の高い大学に入るのが目的の学校で、私とは合わなかったんですよね。それで「こんな閉塞感いっぱいの日本にはいたくない。海外に出よう」って、ひとりで留学を決めたんです。親にも言わないで、ひとりでお金を貯めて。留学の知識もなかったから、横浜のインターナショナルスクールを訪ねて行って「どうやったらアメリカの大学に行けますか」って聞いて……。日本の大学受験の日も、親に「行ってきま~す」と家を出て、受験に行かずに遊びに行っていたんです。試験を受けていないから、当然落ちるわけですよね。成績だけは良かったから、学校は「あの子が落ちるはずがない」、親も「どうしちゃったの」って大騒ぎですよ。そこで「ママ、ごめんね。勉強するから1年浪人させて」と謝って、とりあえず浪人ということにしたんです。それからバイトでお金を貯めて、自分ひとりでアメリカの大学を受験して、親に「アメリカに行く」と言ったのは出発の2週間前。さすがに親は「何考えているの」って呆れていました(笑)。

ただ私、母は絶対に受験の時の嘘に気付いていないと思っていたんですけど、実は知っていたらしいんですよ。「郁子ちゃん、あの時、嘘ついたでしょう」って、数年前に言われたんです。びっくりして「何で?」って聞いたら、「だって受験票、自分の部屋に置いてあったよ」って(笑)。

アメリカ留学時代に得た、一番大きなものは?

イリノイからロサンゼルスの学校に転校して、生まれてはじめて商売をしたんです。それが私の起業家としての人生の始まりですね。自分のクリエイティビティというものを使ったビジネスはそれが最初だったし、きっとアメリカにはそういったことに挑戦できる土壌があったんだと思います。

それはどんなビジネスだったんですか?

ある日、捨て猫を拾って、「スシ」という名前をつけて飼うことにしたんです。それでスシに玩具を買ってあげようと思ったのだけど、何せお金がないでしょう? それで、スシのために洋服の切れ端とパンツのゴムを使って玩具を作ってあげたんです。今ではペットショップに猫用玩具もたくさん売っているけど、当時は全然なかったんですよ。思いのほか上手にできたので、「これはいけるかも?」って夜なべして作って、道端で売り始めたんです。それが私の最初のビジネスですね。

でも売れたのは、たったの2個だけ。しかも警察官に「許可証ないとダメだよ」って怒られちゃったんです。それで道端はダメだと思って、自分でチラシを作って、高級住宅街にある動物病院に置いてもらうことにして。そしたらだんだんと注文が入るようになったんですよね。『ポインターシスターズ』という有名なコーラスグループのメンバーからも、「うちの猫があなたの玩具をとっても気に入っているから、1ダース追加でお願い」ってブロマイド入りで注文が入ったりして。それがこのビジネスの一番のハイライトですね(笑)。でもこの仕事は、一晩夜なべしても20個くらいしか作れないし、先がないなと思って。結局のところ、私は何かを作りあげるのは好きなのに、成功すると興味がなくなっちゃう性格なんですよ。大学卒業後には、ロサンゼルスで古着を日本に輸出する会社を立ち上げたのだけど、それも日本からバイヤーが来るようになってやめちゃいましたしね。