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先輩メッセージ / Message20:ソーシャルファシリテーター 中野裕弓さん

世銀ではどのような仕事をされていたんですか?

私はまず人事マネージャーとして入って、その後2年目からは人事カウンセラーのポジションに付きました。その時、世銀には3つのカウンセラー部門ができたのです。ひとつはうつ病とか心理的ストレスをケアする心理カウンセラー。二つ目はキャリアカウンセラー。これは「あなたの専門性の仕事は先細りですから、こういう資格をとったらどうか」など、キャリアについて相談に乗るカウンセラーですね。三つ目は、私が配属された人事カウンセラー。人事カウンセラーは、財務部や監査部など、業務の部署を担当しその部全体の人事を担当します。会議にも社員研修にも一緒に参加します。そして会議の流れを見ながら「この人とこの人はどうも性が合わないから、レポーティングラインを変えたほうがいい」とか「ここはもう1人サブをつけた方が仕事が回りやすい」など、そういうことを判断して、マネージャーに提案しグループ・ダイナミックスを活性化するというのが仕事ですね。

海外で働いてみて実感した、日本と海外で働くことの一番大きな違いは何ですか?

とにかく海外の人は自分の考えを文章ではなく、口に出してよくしゃべるということですね。海外では、言葉で語らないとその人の存在感がないと思われるんです。一方、日本では「不言実行」とか「沈黙は金」とかいう言葉が示すような独特の文化がありますが、海外ではそれは全く通用しませんね。

こんなちょっと悲しい話があります。数少ない日本人の中で、ある年配のエコノミストの方がリストラの肩たたきにあいました。ご本人も釈然としないと私のところに相談にみえたので、彼の上司に何でこの方がターゲットになるんですか?と聞きに行ったんです。そしたら上司は「彼は会議での発言がないから」と一言。

ご本人に「会議で発言がなかったというのですが」と伝えたら、彼は「うちの部の会議では、みんながしゃべりすぎる!長々語る人が大勢いるので会議は回る。だから僕は聞かれたら答えるだけにして、早々にオフィスに戻ってレポートを仕上げる方が有益」彼は、そう思っていたんです。彼は語るより、いい仕事をして実績を上げたかったのです。でも、語らなければ存在感がないととられてしまうとは思いもしなかったと。ビジネスの仕方が違うんですよね。国際的な場では、たとえ前の人と同じ意見であっても自分の口から一言必ず言うことが大事。何か話さないと存在感が薄くなってしまうんです。

とはいえ、特に語ることがない時もありますよね。そういうときには、手を挙げてとにかく質問することです。それだけでも違います。「それはいつでしたか?」「その後どうなったんですか?」など何でもいいんです。声を出して発言しなければ、いたということにはカウントされないんですから。日本でも中学、高校の頃から自分の意見を自分で語ることに重きを置いた教育が求められるようになりますね。もちろん「不言実行」「黙して語らず」と取られてしまうわけですからね。

日本人の奥ゆかしさが短所になるのに対して、逆に日本人の長所は何だと思いますか?

「空気が読める」というのは、日本人の特徴のひとつですね。日本は“ハイコンテクスト・カントリー”に分類され、何か情報を得る時に、言語以外の情報を読むのが得意なお国柄。例えばYESであっても即答で「ハイ!」と答えるのと、ややあって「…はい」というのは明らかに違いますよね。表情だって違います。でもそれを文章にすると、どちらも「YES」なんです。そして西洋の人たちは「YES」という部分しか読みません。日本人は「…」の間を読むのが得意。そういう意味で行間を読む、空気を読む、というオールラウンドに情報をキャッチする力は、これからも大切にしていって欲しいと思います。

それから「窮鼠、猫を噛む」ということわざがありますが、日本人はとことん人を追い詰めるということはあまりしません。話をよく聞いて、相手の顔も潰さないようにする。三河商人の教えにも「三方よし」という言葉がありますが、その感覚は実はとても大切なことだと思います。たとえば世銀の政策は、国力の強い国だけでなく、発展途上の国にとっても良いものでなくてはなりません。「どちらにとっても良い」というWin-Winの感覚をとりまとめていくのは、実は日本人は得意だと思っています。西洋では弱肉強食の考え方が通用しますからね。もちろんそれがいい悪いと論じるではありませんが、相手の顔をつぶさないという「和をもって事を成す」精神で日本の良さをもっと出していければ、食うか食われるかの交渉で疲れている人も、もっと気持ちが楽になれると思いますね。

中野先生が世銀を辞めようと思ったきっかけは何だったのですか?

私はもともと直感型の人間で、心理学は独学で学んだだけです。でもその私の直感的見解と他のカウンセラーの学術的見識がコラボすることで、相乗効果でいいカウンセリングができたと思いますし、そういう意味ではわたしも世銀に貢献できたと思います。

でも私は、いつも人事は「適材適所」だと思っています。ですから今後の活動の場は世銀に限らないと思ったんですよね。つまり、この人材はどこに置くと一番いいパフォーマンスをするかと考えたときに、現職がそういう場でないなら、あるいはもっと別の場所があるなら、一か所にしがみつく必要はないんです。そう思って、世銀でも何人ものスタッフを「適材適所」で本国にお帰りいただいたこともありました。ある時、上司から「君のところにカウンセリングに来ると、みんな辞めていくね」と言われました。世銀って、とても人気のある職場で、世界中のアカデミックな領域で志の高いトップの人たちだけを集めているから、競争も厳しいわけです。その環境にうまくはまる人もいればはまらない人もいるんですよね。このはまらない人も別な場所に移してあげれば、すごいリーダーになれるのに……。そう思っちゃうんです。実際に私がそう言ったことで、国に戻って国政に参加しようと帰国した人もいます。そりゃ上司にしてみれば「君は世銀のために働いているんじゃないのか?」と思いますよね。でも私は「世界のために働く」という感覚でした。

そしてそれは、私自身のことにもあてはまりました。実は世銀って、ものすごく条件がいい機関なんですよ。だから一度入ったら、普通はなかなか辞めません。それにやっている仕事も、世界の貧困をなくすという命題のもとに130何カ国の人が集まって、日々しのぎを削っている志の高い職場。でも世界での適材適所を考えたときに、私にはもっと輝ける場所があるかもしれないと思ったんです。そんな中、日本からよく聞こえてきたのが、いま、子どもたちが危ないというニュース。17歳のティーンエージャーの自殺のニュースが続いた時期であり、オウム真理教が世間を騒がせていた時期であり、若者が迷ってどこに行っていいのかわからない時期でした。これは日本の国力うんぬんではなく、教育や子どもの支援をしっかりしないと、そう強く思いました。

今までは人事として間接的に社会貢献に関わって来たのが、直接関わりたいと思うようになったんですね。

そうですね。世界銀行では、エコノミストたちはみんな長期で途上国に出張します。開発が必要なところに出向き、灌漑や道路などインフラを充実させて国力を復興させる調査をし、その国に経済的支援をします。ミッションと呼ばれる出張から戻った同僚たちはみな生き生きとして目の輝きが違うんですよね。彼らに言わせると「国創りはロマンだ!」と燃えています。そこで私も「行きたい!」と思うけど、私はワシントンD.C.の本部付きの人事ですから途上国へのミッションはありませんでした。「国創りはロマン」という言葉にひかれ、私にとって創るべき国はどこだろうと考えたら・・日本だ、日本しかない、ということになってそれで辞表を書きました。

「国創りのために帰国したい」と言い出したら、周りの人には「政治家になるの?」と聞かれましたね。それで「政治家じゃない」。「それじゃ会社に入るの?」「いや一人でやりたい」。上司や仲間には「大丈夫か?」と言われましたよ。そして最後には「失敗したら戻ってきなさい」と言われました。でも失敗はできませんよね。これは大切な自分の国ですから(笑)それで日本に帰って12年余りになりますが、地道に活動しているというわけです。

我々の留学生を対象にしたセミナーでは、世界銀行をはじめ国際機関で働きたいという声も数多く聞かれます。国際機関で働くときに求められる資質はありますか?

まずは多様性に強くなくてはならないということでしょうか。開発経済そのものもそうだし、働く環境もそうですが、自分以外の価値観は相いれないというわけにはいきませんからね。いろんな考えがあって、多様性に満ちているからこそ面白いと思えるかどうか、ですね。また西洋経済の理論で開発を推し進めていっていいのか、という問題もありますね。西洋の貨幣経済、価値観をすべてに適用していいのかどうか。そこには常に疑問を持たなくてはならないと思います。今、世界にとって必要なものは何かというと、文化の多様性を認めたうえで調和すること。何か一つに統一されることではないと思うんです。

世銀時代にこんなこともありました。ワシントンD.C.でタクシーに乗って、「世銀までお願いします」って言ったら、アフリカ系黒人の運転手の方が「お客さんは世銀の人?」と聞いてくるんです。それで「はい」と答えたら、「世銀は僕の国に介入しないでほしい」と言うんです。世銀が開発すると、みんながお金に目を向けて、すべての若者が田舎から都会に出て行ってしまう。そうすると田舎で農業をやる後継者は育たなくなる。だから世銀には来てほしくない……。彼にそう言われたときに、私は本当にショックでしたね。だって、それまで私は世銀は世界にとっていいことしていると思いこんでいたのですから。

また、何度かホリデーでクスコやマチュピチュに行った時に、ペルー人の考古学者が「僕たちは今お金を貯めてジャングルの土地を買っているんだ」と言われたんです。それで「何でですか?寄付しますよ」と言ったら、彼らは「世銀からジャングルを守るため」って言うんですよ。つまりそこを西洋的な考えで開発されてしまったらそこに住んでいる原住民の方たちの生活環境が変わってしまう。だから誰も開発できないように、守っていると言われたんです。

世銀のベストウェイが必ずしも彼らのベストウェイではないということですね。

本当にそう。もちろんその問題は、内部でも議論されていることですし、世銀の役割の中には世界遺産を守るという大切な仕事もありますので、少しずつ方向は変わるでしょう。でもみんなが金銭的に豊かになればそれでいいってものじゃないということは、事実としてありますね。

「世界がもし100人の村だったら」のメッセージを訳したときにつくづく思いましたよ。今まで良かったものが次の世代にも良いとは限らない。いろんな人がいる。いろんな価値観がある。その人たちを否定することなく、あるがまま受け入れて、仲良く手をとってダンスが踊れるような多様性に強い考え方を持たないといけないなって。

ではその「もしも世界が100人の村だったら」と出会った経緯を教えていただけますか?

世銀を辞めて帰国して3年過ぎたころ、2001年春です。当時は神奈川県小田原市に住んでいたのですが、朝起きてパソコンのメールを見たら、世銀時代の仲間からメールが入っていたんです。「今日はついていないと感じたあなたも、これを読んだら世界が違って見えるかも」という長い件名がついていて、「何これ?」と思って読んだら、あの100人の村のメッセージだったんです。

読んだ瞬間、電撃が走ったみたいな感じでしたね。100人で構成された地球が手のひらに乗ったそんな気がして親近感を覚えました。もともとこれはアメリカの環境学者のドメラ・メドウスさんが書いた「ある村のレポート」それがネットの中をぐるぐる回っているうちにいつしか100人の村に数字が変えられて、後半の部分も足されたものです。100人というのが数字に弱い私でも本当にわかりやすかった。「これが地球?」そう思った時に、強く心に感じるものがありましたね。だから本文を訳すのには、20分くらいしかかかりませんでした。憑き物がついたみたいにあっという間に訳して、その後それを講演会の時に配ったり、ネットで配信したりしました。本を出そうなどとはサラサラ思っていませんでしたよ。いい情報はただ回せばいいと思っていましたから。

その後、翻訳家の池田佳代子さんが数字を新しいものに変えて本を出すということでマガジンハウスからベストセラーになりました。私の当初の訳もあとがきに載せてくださいました。一度だけ池田さんとは電話でお話をしたのですが、彼女も「この本は3人の女性の手を経ているんですよね。」って言っていましたね。ドメラ・メドウスさんは59歳11ヵ月で亡くなられて、その直後、まさに四十九日も過ぎないうちに日本の私のところに届いて、そして私が訳して発信した丁度半年後、9・11の同時多発テロが起こり、その時、相次いでこのメールが数か所から池田さんの所に届いている。確かに不思議な縁を感じます。