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先輩メッセージ / Message13:アート・ディレクター 水谷孝次氏

「あなたにとってMERRYとは何ですか?」という質問を世界中の人々に投げかけ、その答えを笑顔の写真とともに集める「MERRY PROJECT」。今回は「MERRY PROJECT」の代表であり、グラフィック業界の第一線で活躍してきたアート・ディレクターでもある水谷孝次さんに、じっくりお話を伺いました!

PROFILE

『あなたにとってMERRYとは何ですか?』
MERRY PROJECTはこちら!

水谷孝次(みずたに こうじ)

1951年、愛知県生まれ。大学在学中にデザイナーを志す。大学卒業後、働きながら桑沢デザイン研究所の夜間部に入学。日本デザインセンターを経て、1983年水谷事務所設立。1982年、東京ADC賞、JAGDA新人賞、N.Y.ADC国際展金賞・銀作用、ワルシャワ国際ポスタービエンナーレ展銀賞・銅賞・特別賞ほか受賞多数。1999年より、世界中の人々の笑顔を集めるコミュニケーションアート「MERRY PROJECT」を開始。2005年には愛知万博「愛・地球広場」にて「MERRY EXPO」を展開。2008年には、北京五輪開会式のオープニングセレモニーに芸術顧問として参加。世界中の子供たちの笑顔をプリントした傘が会場を埋め尽くした。これまでに水谷氏が撮影に出かけた国は世界26カ国にものぼる。

まず、水谷さんがデザイナーを志すようになったきっかけを教えてください。

僕の父は戦争で耳を負傷していましてね。僕は子供ながらに、もっと世界を良くしたい、世界を変えたいと思っていたんです。でもそれが何かは、当時は全然わからなかった。確かに絵は好きだったけど、絵で食べていくのは難しいし、まったくリアリティはありませんでした。しかも僕の生まれた名古屋は工業地帯なので、周囲の人たちも工業の仕事を目指す人が多くてね。僕もそのレールに乗るのかな、なんて考えていたんです。

そして思春期、僕は音楽にハマってしまったんですよね。ちょうど今でいうフォークソングが流行った頃で、僕も音楽で世界を変えることができたらいいな、と思うようになって。友達とレコードを作ったり、コンサートを開いたり、本格的に音楽活動をしていたんです。自分たちでポスターをデザインしたり、チラシを作ったりしてね。そういう作業が楽しかったんですよ。そうこうしているうちに「……あれ、デザインはアリだな」と。大学では電子工学を勉強していたけど、そのつまらなさとは違う「何か」があったんです。

音楽の道へ進もうとは思わなかったんですか?

僕は基本的に鈍感な人間だから、実はアリなんじゃないかと思ったけどね。だってその当時は、郵便局で1日バイトをしてもらえる給料が1000円。僕がコンサートで歌を1曲歌えば、それだけで1500円もらえたんですよ? 正直、ホロホロっと行きかけました(笑)。でもそこまで音楽の才能がないことは、自分が一番分かっていましたから。

では、デザインの仕事のどういった点に惹かれたのですか?

やっぱり自分の作ったポスターで人が来てくれる、自分が作ったもので人が動くということが嬉しかった。絵が好きだ、子供の頃から習っていた習字も活かせる、人を感動させることもできる。そう考えていくと、デザインは自分の中の最大公約数を満たすことができる仕事だったんですよ。失敗するかもしれないけど、やる価値があると思えました。それがちょうど21歳のときだったのかな。デザイナーとしては非常に遅いスタートですね。

水谷さんは、世界的に有名なグラフィックデザイナー・田中一光氏の事務所にも、自ら押し掛けて行って雇ってもらったそうですね。そういう情熱って、今の若者たちには欠けているものに思えるのですが。

時代もありますよね。僕は昭和26年生まれなので、育った時代はまだまだ戦後といった雰囲気でした。どんな職業でも、先生がいて、お弟子さんがいるのが当たり前。デザインの世界も、そういうものだと思っていました。それに僕は芸大出身でもなかったし、アカデミックな知識もありませんでしたからね。何が大事かといえば、やっぱり現場。そして現場で学ぼうとするのであれば、最高の人のもとで学ばなくては意味がない。それが田中一光先生だったんです。単純にそういう考え方ですよ。

でもね、一光先生は、最初は僕のことを嫌がっていたんですよ。僕は、自分の作品を持参したんですけど、非常に嫌がられました(笑)。はっきり「来るな」とは言われなかったけどね。僕も今の立場になってみたら、わかりますよ。デザインのことを何もわかってないし、できることなら自分のそばには置きたくないなぁ……。たぶんそう思ったはず。ただ、先生にしても僕にしても、デザインを志しているということは一緒。きっと先生も、僕が何かを目指しているということは理解して、そして尊重してあげたいと感じたと思う。一生懸命何かをやっているし、そういう子を傷つけたくはない。でもここに置いたら手がかかりすぎる…… 。先生も、相当困ったと思いますよ。

それでも結局、働かせてもらうことになったんですよね?

いや、先生には「出直してきなさい」と言われました。でも、ここでやめたら何も知ることは、できませんからね。次の日の朝、また先生の事務所に行ったんです。しかも「出直せ」と言われたのに、普通に仕事をし始めましたからね。もう若さって恐ろしいよね(笑)。そうして何かしら仕事を見つけてやっているうちに、事務所の人も仕事をくれて。先生も「君も一緒に食事に来なさい」って言ってくれて。そのまま働くことを許してくれたんですよ。普通ならありえないですよね(笑)。そうは言っても、一光先生は本当に厳しい人でした。ホコリや汚れも許さなかったし、本もピターッとキレイに並べていましたね。机に傷なんかがあったら、もう大変。ものすごく怒られるんです。でもそういう感性が、文字の空きとか、罫線の空きにつながってくるんですよね。そんな人でしたから、たとえバイトであっても、僕みたいな納得できない人間を入れるというのは、本当につらかったと思いますよ。

田中一光氏の事務所を辞めるときには「いいものをたくさん見なさい」と言われたと著書にありましたが。水谷さんが、感性を磨くためにしたことを教えてください。

先生には「一回デザインをやめて、いいものをたくさん見なさい」と言われたんですよね。実質クビみたいなものだったんですけど、そのときは素直に「いいものを見なきゃ」と思いました。確かに僕は体ひとつで東京に来て、絵画も知らなきゃ、デザインも知らなかった。そこからはもう、美術館やギャラリーに行ったり、本を読んだり、いいものを知るために動きまわる日々。有名な先生にも自分で電話をして、とにかく会いまくりました。どんなに有名な先生でも、みんな普通に会ってくれて、2時間も3時間もお話してくれましたよ。こちらがピュアな思いを持っていれば、どんな人でもピュアに対応してくれる。ある意味、鏡なんですよね。たまに僕のところにも若い子が話を聞きにくるけど、やっぱり会うと親身になっちゃいますよね。たぶん僕が当時お会いした先生方も、そう思ってくれたんじゃないでしょうか。

そうして、本を読んだり、絵を見たり、先生を訪ねて話を聞いているうちにね。乾燥した砂漠に雨がザザっと降るように、一気にデザインの栄養が自分の中にしみわたってきたんですよね。それはもう強烈な体験でした。あのとき一光先生が言っていたのは、こういうことだったのか。文字を選ぶのはこういうことなのかって、だんだん辻褄が合ってきてね。僕は僕なりのやり方で吸収して、僕なりのやり方でデザインをやろうと思うようになっていったんです。

(著書の紹介)
「デザインが奇跡を起こす」

不器用だった青年が、日本を代表するアート・ディレクターへ。そして商業主義に揉まれた末にたどり着いたのは、笑顔のコミュニケーションデザインだった……。壁にぶつかりながらも、自分の目的に向かって突き進む水谷さんからの、熱くポジティブなメッセージが詰まった一冊。デザインや広告業界を目指す人はもちろん、「何のために働かなくてはいけないのか」がわからなくなった人にも、ぜひ手にとってほしい一冊です。