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先輩メッセージ / Message07:西尾市立西尾中学校教師 小島裕治先生

両手を事故で失いながらも、中学校教師という夢をつかんだ小島裕治先生。足の指でチョークを使い、生き生きと仕事をする小島先生の姿は、どんな言葉よりも説得力を持って「挑戦することの素晴らしさ」を教えてくれます。今回は、夢に向かって一歩踏み出す勇気をくれる、爽やかな先輩メッセージをお届け!

PROFILE

小島裕治(こじま ゆうじ)

1980年、愛知県生まれ。4歳のとき、交通事故で両腕を切断。以降、足を手の代わりとして、日常生活をおくることに。1999年には名古屋外国語大学の外国語学部英米語学科に入学。ホノルルマラソン完走、名城大学での講演、ニュージランド短期留学など、さまざまな経験を積む中で、教師になる夢を抱く。2005年、同大学院卒業後、アメリカ、カナダに留学。帰国後は、中学校で非常勤講師として働きながら、教員採用試験に挑戦。2007年、3度目にして見事合格し、2008年より西尾市立西尾中学校に勤務。

小島先生は4歳で事故に遭われて、両腕を失われたそうですが。まず事故で両腕を失ったときのことを教えてください。

1984年の9月6日、ものすごく暑い日のことでした。友達の家に遊びに行く途中、近所の神社に寄り道をしたんです。神社で遊び終わって横断歩道を渡ろうとしたときに、ダンプカーがやってきて……。自分では右、左を確認してから渡ったつもりでしたが、やっぱり暑いし、気持ちが焦っていたんでしょう。ただ、4歳のときのことですから、はっきりしたことは覚えていないんですよ。次の記憶は、もう病院。僕はベッドの上に寝ていて、周りはワイワイガヤガヤしていて、何が起こっているか分からない状態で。やっと目が開いたと思ったら、病室のベッドの上で寝ていた、という感じです。

当時は4歳ということで、周りの方が不自由さを補ってくれたと思います。それでも不便さを覚えたことがあるとすれば、それはどんなことでしたか?

まず、自分でご飯が食べれなくなってしまったこと。誰かに食べさせてもらうということが、一番不便でした。それから、くるっと回すタイプの丸いドアノブは自分で開けることができなくて。病室のドアノブはL字型に変えてもらって、自分で行動できるように配慮してもらったというのは覚えています。

なぜ義手を使うという選択はしなかったのでしょうか?

事故に遭った直後、一度は義手を作ったんですよ。でも当時の義手は、ただ「両手はあるよ」って見せかけるための偽物で。機能も何もない、重たいだけのゴム製品だったんですよ。付けてはみたものの、重いし邪魔くさい。「こんな役に立たない義手なんて必要ない!」ということで、結局使わないことにしたんです。それじゃあ、これから生きていく上で、字を書いたり、ご飯を食べたりするにはどうすればいいか……。そう考えたときに、残された答えは「足で生活をすること」。残った足を訓練したほうが手っ取り早い、という答えに行き着いたんですよね。それで義手は使わずに、足の訓練を始めることにしたんです。

訓練は何歳ごろから始めたんですか?

もう、退院してすぐですよ。リハビリセンターに母親と行って、そこに何週間か泊まり込んで、ずっと練習をして。家に帰ってきたときには、もう足でごはんを食べられるようになっていましたね。まあ、4歳から訓練を始めたからできるようになったけど、もし今の年齢で訓練を始めて、食事ができるようになるかと言えば、それは言えないと思います。体が柔らかい時期に訓練したからこそ良かった、というのはありますね。

両腕を失ってから、家庭の雰囲気に変化はありませんでしたか?

僕の中では、すんなり家族の中に入っていったと思っています。僕は4人兄弟なんですが、両親からは、4人とも同じように「勉強しろ」と言われ、「宿題やれ」と言われ、「塾に行け」と言われていましたね(笑)。ただ、ひとつだけ他の兄弟と違う記憶があるとすれば、小学校での水泳の授業ですね。水泳の授業では、当然、担任は一人だけで30人以上の生徒を見なくてはいけません。僕は泳げなかったけれど、先生が僕だけの指導に徹するということはできないんですよね。そんなとき、父親が休みを割いて、水泳の授業に来てくれたんです。励ましてくれて、一緒に練習をしてくれて。とても嬉しかったですね。

それから父は、保育園も小学校も普通学校に入れるために、ものすごく努力してくれていたようです。やはり最初は前例がないということで拒まれたのですが、粘り強く学校に交渉してくれたんですよね。小学校に入学するときには、隣の市では同じように両腕がなくても学校に通っている子がいるという情報まで調べあげて、その資料を持って校長先生のところまで直談判に行ってくれて。今考えると、すごく僕のために配慮してくれたんだろうなって思います。

変わりなく接して、変わりなく教育するという方針だったんですね。

もちろん、同じように教育を受けさせたいという思いはありますよね。それから両手がない分、他の人以上に頭を使って、しっかりとした仕事に就いてほしい、という考えもあったと思います。手を補う部分を育てるために、学校でしっかり勉強をさせたい。きっと、そう考えたんじゃないでしょうか。

では子供時代、何が一番コンプレックスでしたか?

小学生のときは、自転車に乗れないことや、体育でバスケットやバレーの授業があるときに見学しなければいけないことが一番イヤでした。悔しいというか、もどかしいというか……。やるせない気持ちになるんですよね。

自分に対して、もっとこうしてほしい、といった甘えの気持ちが起きることはありませんでしたか?

甘えの気持ちはないですね。どちらかというと、自分ひとりでやりたいという気持ちが大きかったんです。何をやるにしろ、人の手を借りないためにはどうすればいいかって、考えてばかり。どうしてもできないときは、友達にやってもらうのは悔しいから、先生にお願いしてやってもらったり。友達には、絶対に甘えたくありませんでした。

それは対等でいたい、貸しを作りたくないという気持ちですか?

はい、そうですね。

では、いつぐらいから、他人に甘えることができるようになったんでしょうか?

本当に最近ですよ。車に乗ったり、トイレに行ったり、工夫してひとりでできることはたくさんあります。ただ「自分がこれから生きていく上で絶対にできないこと」も、次第に見えてきたんですよね。今までは、それに対して目を伏せていたんですよ。「できないこと」は見ないようにして、家に閉じこもったり、自分の事情をわかってくれる友達がいる場所にいたり。でもそればっかりだと、自分が社会に出ていろんなことをしていく上で、能力が限られてしまうんですよね。

例えば、コンビニに行く時にお金を払ったり、物を運んだり。教師の生活でいうと、授業のコピーをしたり、大きいものを運んだり。もちろん、自分でできないことへの葛藤はあります。でも結局、誰かに頼んでやってもらわないと、仕事も進んでいかないですからね。そこで、ようやく「できないことはできない」と割り切るしかない、と考えられるようになったんです。

小さい頃や青春時代には、何で自分だけ、と神様を恨むような気持ちが起きることはありませんでしたか?

そうですね。思春期には多少、そういう思いもあったかもしれません。もし手があったら彼女ができたり、スポーツに打ち込めたり、自分のできることももっと広がったかもしれない。でも僕には両手がないから、できない。……今考えてみると、そこには何の感情もありませんでしたね。恨みというよりも、どうせダメなんだという諦めの気持ちのほうが大きかったです。

そうした思春期時代の諦めの思いが、どこかでポジティブに変化していったと思うのですが、それはどんなときだったのでしょうか?

一度は高校受験に失敗して、ギリギリ私立を受けて高校に滑りこんだけれど、最初は友達もなかなかできなくて。でも先生に誘われて、ICC(国際協力クラブ)に入って、やりたいことがだんだんと見えてきたんですよ。英語を使って仕事をしたいな、仕事とまでは行かなくても、大学で英語を勉強したいな・・・そういう気持ちです。自分の中で、ようやくできること、好きなこと、が芽生えてきたんですよね。

でも本当に割り切れるようになったのは、もう少し後。名古屋外国語大学の2年生のときに、恩師の黒田教授に誘われて、ホノルルマラソンに出場したときからですね。それまで僕は、何か目標があってそれを乗り越えるために努力をした、という経験がほとんどなかったんですよ。それがホノルルマラソンに出場し、そして完走したことで、自分も目標を持ってやればできるんだ、と思うようになれたんです。今までは両手に対するコンプレックスがあって身動きもできなかったけれど、ホノルルマラソンを完走したという自信が、すごく自分を奮い立たせてくれたんですよね。今までは両手がないせいにしていろんなことを諦めていたけれど、自分にもできるんだって。人生が180度変わりましたよ。