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先輩メッセージ / Message04:株式会社マザーハウス 山口絵理子代表

「途上国から世界に通用するブランドをつくる。」を理念に、高品質でデザイン性にも優れたバングラデシュ製のバッグを生産・販売する株式会社マザーハウスの代表・山口絵理子氏。山口氏が、起業を決意したのは23歳のときのこと。一体、何が若い彼女を突き動かしたのだろうか。初の20代の先輩からのメッセージをどうぞ。

PROFILE

山口絵理子(やまぐち えりこ)

1981年埼玉県生まれ。慶応義塾大学総合政策学部卒業、バングラデシュBRAC大学院開発学部修士課程修了。小学校時代にイジメにあい、その反動で中学で非行に走る。その後、強くなりたいとの思いから柔道をはじめ、高校3年時には全日本ジュニアオリンピックで全国7位の結果を残す。大学時代には、米州開発銀行でインターンとして勤務。「途上国の現場を見たい」という思いからバングラデシュに渡り、日本人初の大学院生となる。三井物産の現地法人でインターンとして働く中、途上国に必要なのは経済の自立と考え、23歳で起業を決意。
2006年、株式会社マザーハウスを設立。「フジサンケイ女性起業家支援プロジュエクト2006」最優秀賞受賞。

高校時代は、柔道のジュニアオリンピックで全国7位になるほどの柔道少女だった山口さん。大学は柔道に強い学校ではなく、慶応義塾大学に進んだそうですね。

はい。高校3年のときに「政治家になりたい!」と思い立ったんです。それで政治家なら、早稲田か慶応だろうと。中学、高校と、畳しか知らないで進んできたので、知っていた大学がそれぐらいしかなかったんですよ。

政治家になろうと思ったのはなぜですか?

小学校のとき、イジメにあっていたんですよ。教育を変えるんだったら、政治家だろうという単純な発想です。やっぱり政策からじゃないと、と思って。

しかしながら、通っていた高校は柔道が強い工業高校だったんですよね。決して進学校ではなかったそうですが、先生の反対はありませんでしたか?

「どうせ落ちるんだし」と、全然相手にされていませんでした。そりゃそうですよね。大学に進学する生徒が、全生徒の1%ぐらいしかいない学校だったんですよ。特に柔道部員は、警察官や消防官を目指す人が多かったので、大学と言えば国士舘に進む人が多くて。だから私が「慶応行きたい」って言っても、「ダメなんだから、とりあえず勝手にしたら~」という感じ。私自身「まぁ、落ちたら、来年受けよう」と思っていました。でも、いざ机に向かってみたら、勉強が楽しくて。文字をあんなに読んだのは、初めてでしたよ。

では、高校3年になって初めて勉強を始めたんですね。

そうなんです。柔道の全日本の試合が9月23日だったので、試合が終わるまでは何も決めていない状態。やっと試合が終わって全国7位になって。自分の中でも「結構頑張ったな」と納得することができたので、柔道生活には終止符を打つことにしたんです。

全日本の合宿では、谷亮子選手とも一緒に練習をして、私はオリンピックに行くような選手じゃないって痛感していたんですよね。合宿所には、小さい頃から柔道一直線で、柔道をやるために生まれてきたような選手がいて。私の場合は、ケンカが強くなりたいという挑戦の気持ちでやっていて、自分の身を守れればそれでいいかなと思っていて。やっぱりスタート地点から、負けているんですよ。将来的に柔道で食っていこうという考えは浮かばなかったし、だったらここですっぱり辞めたほうがいいのかなって。……それで10月から必死で勉強を始めたんです。

その短期間で受かるというのは、すごい集中力ですね。

集中力くらいしかないですよ、私には(笑)。柔道の試合は3分しかないですからね。

大学では開発学を学ばれたそうですが、それはどうして?

最初は、経済や政治など、どんな学問でも新しくて。大学ってすごいな~、なんて思いながら勉強をしていました。でも最終的に「教育をどうにかしたい」という視点に戻った時に、本質的に教育が足りないのは日本じゃないな、と気づいたんです。

それに私は、皆それぞれに役割分担があると思っていて。周りの学生が素晴らしい方ばかりだったので、日本のことは彼らにまかせればいいかな、と思ったんです。大学に入って「日本にはこんなに優秀な学生がいるんだ」って、本当にびっくりしたんですよ。日本は彼らが何とかしてくれる。本質的に教育が欠けている他の国にこそ、自分の活躍の場があるんじゃないか、と。

大学4年のときには、発展途上国に援助や融資を行うワシントンの国際機関、米州開発銀行でインターンとして働いたそうですね。そちらではどんな仕事をされたんですか?

私が働いていた部署は予算戦略本部といって、簡単に言えば財務省のような仕事をする部署。省と省の間でセッションを行いつつ、予算を決めていくというような業務内容でした。開発銀行は私にとっては憧れの場所で、期待しながら渡米したんですが……。目標を持って途上国のために何かしようという人たちに出会えたかと言えば、決してそうではありませんでした。真正面から議論できるような人がいなかったんです。

それで「自分の目で現場を見るしかない!」と思って、バングラデシュに行くことを決意したんですよね。バングラデシュに決めた理由は、やっぱり行くからには貧しい国に行ってみようと思ったから。サイトで「アジア 最貧国」と検索して、出てきたのがバングラデシュだったんです。

そのまま米州開発銀行で働くことは考えなかったんですか?

性格にもよると思うんですが、私はコンピューターの前で仕事をするというよりは、見たい、知りたいというタイプ。それに日本から来た私がどこまでいけるかと言えば、あの組織では絶対ムリだったんですよ。大学卒業という肩書きじゃ全然ダメ。ハーバードのドクターを2つくらい持っていないといけないような世界。もう何歳になっちゃうんだよ?って感じですよ(笑)

行くことを決めたとき、周囲の方々はどんな反応をしましたか?

うーん。あんまり相談しなかったかな。「現場を見たいんです」と相談しても、アメリカのワシントンユニバーシティを推薦されて、その大学で勉強しなさいと言われたり。見当違いなことをアドバイスされたり。何だろう……。あんまり同じ気持ちに立ってくれる人がいなかったんですよ。学ぶ場所は教えてくれても、リアルなものは見せてくれなくて……。結局、自分の足で現場に行くしかないですよ。

そこで本当に行けるのがすごいですよね。

当時は大学4年生だったし、夏休みをちょっと延長したら行けたんですよ。バックパッカーのようなもので、全然気負いもなくて。短期間の滞在予定でしたし、ちょっと行ってみよう、という感じでした。

実際に行ってみての第一印象はいかがでしたか?

正直、怖いな、と思いました。何と言っても、人の目つきが怖いんですよ。タイやインドネシア、フィリピンなど国の人の目とはやっぱり違う。最初は「もう帰りたい」とまで思いましたよ。