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先輩メッセージ / Message02:ザ・リッツ・カールトン日本支社 高野登社長

最上級のホスピタリティで世界中のゲストを虜にしているラグジュアリーホテル、ザ・リッツ・カールトンの日本支社長をつとめる高野登氏。20歳にしてアメリカに渡った高野氏が、20年間の海外生活で学んだものとは? そして国際的なホテルマンに求められる資質とは? たっぷりお話を伺いました!

PROFILE

高野登(たかの のぼる)

1953年、長野県生まれ。プリンス・ホテル・スクール(現日本ホテルスクール)第一期生。卒業後、ニューヨークに渡り、ホテルキタノ、NYスタットラー・ヒルトンなどを経て、1982年にNYプラザホテルに入社。その後、LAボナベンチャー、SFフェアモントホテルなどでマネジメントを経験。1990年に、ザ・リッツ・カールトン・サンフランシスコの開業に携わった後、リッツ・カールトンLAオフィスに転勤。1992年に日本支社を立ち上げ、1994年には日本支社長として転勤。1997年にはザ・リッツカールトン大阪の開業に参画する。2007年、ザ・リッツカールトン東京の開業に参画した後は、積極的にブランディング活動に取り組んでいる。

高野支社長は、18歳でプリンス・ホテル・スクールに第一期生として入学されていますが、まずは、ホテル業界に興味を抱いたきっかけを教えてください。

これはもう、事故のようなものなんです。私の生まれは長野の田舎で、ホテルといってもいわゆる温泉ホテルみたいなものばかり。「ホテルマンになりたい」なんて考えは、まったく頭にありませんでした。しかも私は、子供の頃から本当に内向的な性格で。家に客が来たら、隠れるような子だったんですよ。高校は何を間違えたか商業高校に進学してしまいました。間違いに気付き、将来は研究職にでも就こうと思って、理工系の大学に軌道修正をしようとしたのです。学校の先生にも「それは正解だ。お前はできるだけ人に会わないで済む仕事がいい」なんて、言われましてね。

それで高校3年のときに、理工系の大学を目指しながら、勉強の合間に受験雑誌を開いていたところ、ある雑誌の中に一枚のハガキが入っていたんです。そこには「1972年、日本で最初の国際ホテルマン養成学校“プリンス・ホテル・スクール”開校」という文字がありました。普段ならそんなもの読み飛ばすんですけど、なぜかそれがトゲのように心にひっかかっていて。そのハガキが気になって気になってしょうがないんですよ。それで資料ぐらいは請求してみてもいいだろうと、ハガキを出してみたんです。そうして家に届いた学校の資料を開いたら、海外のホテルの写真が散りばめられていて……。

開いた瞬間に、そこで働いている自分がパーっと頭に浮かんでしまったんです。どのホテルか、何のシーンかはわからないけど、そこで働く自分が鮮明に浮かんで離れなかったんですよね。あまりにもそのイメージが消えなかったので、これはこの学校に行くよりしょうがないな、と(笑)。もう、学校や親は大反対でしたよ。親なんて「頼むから大工になってくれ」って言ってきてね。私は手先が器用だったもので、大工だったら食いっぱぐれることもないだろうって、こっそり地元の大工と話をつけていたそうですよ。でもまあ、みんなの反対を押し切って、プリンス・ホテル・スクールに行くことになったんです。周りには「人生最大のミステリーだ」なんて驚かれたものでした。

そんなに内気だったなんて、まったく想像つきませんね。

やっぱり環境に飛び込んで変わる気になれば、人は変われるんですね。1972年、東京に出たばっかりの頃は、怖くて銀座にも行けなかったんです。プリンス・ホテル・スクールが赤坂にあって、横浜に寮があって、毎日その間をだま~って行ったり来たり。でもそうこうしているうちに、だんだんと自分を変えないといけない、という気持ちが出てきましてね。

それに学校が第一期でしょう? 海のモノとも山のモノとも分からないような学校に入ろうとするくらいですから、同級生もだいたいどこかぶっ飛んでいる人が多いんです。そういう面白い彼らと居るうちに、だんだんと刺激されてね。性格の根本は変えられないけれど、生活を変える努力をするようになったんです。ただ、いくら自分が変わったと言っても、周りがユニークな奴らばっかりでしたから、私の存在感なんてまったくありませんでしたね。だから、「卒業したらアメリカに行って就職する」なんて言い出したときも、みんな腰を抜かしそうになっていました。

なぜ向こうで働こうとお考えになったのですか?

これもね、やっぱり事故なんです(笑)。スクール2年目の時に、卒業旅行も兼ねてアメリカ西海岸に遊びに行ったんです。旅行予算も少なかったので、バンクーバーから入ってロスまでずっとバスで行くという一番安いルートでね。シアトル、サンフランシスコと、国道5号をず~っと下っていくわけなんです。1970年代ですから、まだまだ開発は進んでおらず、周囲は畑だらけ。道路の両脇には灌漑施設があって、その周りにはどこまでも綿の畑が広がっていて。

1時間も走っていると、広大な畑の上にセスナ機が飛んでいて、白い粉をバ~っと噴射しているのが見えるんですよ。何だろうって思ったら、それが農薬の散布なんですよね。私の地元の長野では、みんな背中に農薬のポンプを背負って、カシャンカシャンッて手動で農薬をまく。でもこの国では、セスナで農薬をまいている。これを見たとたん、自分の中で、もう何かがぶっ飛んじゃってね。「何て国だろう!この国で仕事をしたら面白いだろうな」って、思ったんです。

その旅行から帰国した後は、もう誰かれ構わず「アメリカで働いてみたい」と言うようになっていました。でも周りの友達は僕の性格を熟知していましたから、「お前は、どこか国内のホテルの会計係になるのが一番だ」「人と会わないセクションが合っている」なんて、軽口を叩くんですよ。それでも私は「アメリカで働きたい」なんて、自分に似合わないことをペラペラと言っていたんです。

そうすると面白いもので、誰かのアンテナにひっかかることがあるんですよね。私の場合は、ちょうど卒業の3か月前のことでした。当時私をかわいがってくれていた先生が「君、アメリカに行きたいんだって?」と声をかけてくれて。「長野にある北野建設が、ニューヨークでホテルを開業するので、スタッフを探している」と紹介してくれたんです。僕の地元は長野でしたから、北野建設のことはもちろん知っていましたし、たまたま社長が商業高校のOBだったんですよね。先生も「それなら話が早い」と、その日のうちに面接をセッティングしてくれたんです。

銀座の本社で、たまたまいらっしゃった社長と「君、長野商業高校出身だってね。最近は野球部が弱くてダメだね」なんて1時間くらい話をしまして。そしたら社長が「じゃ、私は長野に帰るから、人事部に行って書類に記入しておいて」と言うんです。それでとりあえず人事部に行って、書類に記入したら、何とそれが面接と入社の手続きだったんです(笑)。

それでアメリカ行きが決定されたんですか!

はい。正式にはビザが間に合わず、開業には遅れちゃったんだけどね。それでも開業6ヵ月後くらいには、ニューヨークに渡りました。

語学はどうされたんですか?

最初は英語を話そうと思って、一生懸命、英語の本を読んで勉強していたんです。でも、それではまったく上達しませんでした。英語は、ただ話そうとしてもダメ。英語で何を話すのかという目的がないと、話すことはできないんですよね。

このことを教わったのは、ホテルの近くにあったバーのバーテンダーなんですよ。ホテルキタノNYで働き始めて、「Yes,sir」だとか、スクールで習った簡単な英語はできるけれど、やっぱり意思疎通はできなくてね。いつもくたびれて、バーに飲みに行っていたんです。最初は何か変な東洋人が来ているな、というような雰囲気だったんですが、毎晩飲みに行っていたものだから、ある日、バーテンダーが声をかけてくれたんです。「お前は何をしているんだ?」と聞かれたので、「そこのホテルが開業したから、働くことになったけど、言葉ができなくて疲れる」と答えた。するとバーテンダーが「お前、毎日来ているんだったら、ここで英語を学べ」と言ったんです。その日から、そこのバーのカウンターで生きた英語を学ぶようになったんですよ。

最初は「……グッドイブニング」なんて言いながらお店に入っていたんですが、彼は「そんなのやめろ。お前の“Good evening”なんて、誰も返事しないぞ? 入ってきたら“Hey,What's up?”と、声をかけろ」と、言うんですよ。そう言われても「……ワ、ワッツアップ?」みたいなね(笑)。でもそうやって生きた英語で話しかけていくうちに、どんどんバーにも顔なじみができてきて、会話もできるようになっていったんです。ストリート・スマート・英語というんでしょうか。学校で習うのではなく、自分の伝えたいことを伝えるための英語ですよね。文法だってメチャメチャなんですよ。今思うと、よくあんな英語で会話をしていましたね。