APUに入っていなければ、知らなかった。私にとってこれ以上魅力的な仕事はない! (卒業生:福澤めぐみさん)

「なんでそんなとこ行くの?」

(今はどうか分かりませんが…)第1期生の私たちの時は、入学案内がCGだったんですよ。とても綺麗なCGで、広告の上手な立命館大学が創った素晴らしいキャッチコピーがそこに並んでいました。それを見た瞬間、本能的に「ここで勉強したいな!」と思いました。その中でも私が一番魅かれたのは、やはり、世界中から学生が集まってくるキャンパスで学べる、ということですね。もともと高校時代、アジアに興味があって、夏休みの自由課題としてインド研究をしてたんですけど…。色んな国から集まる学生と、実際、一緒に生活したり勉強したりするような環境に身を置くっていうことが、とても魅力的に感じたんです。
親は最初両手を挙げて賛成してくれた訳ではなかったんですけど、「立命館が創るなら、変な学校じゃないはず」、ということで最後は応援してくれました。高校の同級生はほとんど地元の大学に進学する中で、「なんでそんなとこ行くの?」という質問は何度聞かれたか分かりません…(笑)。それでも「ここに、行きたい!」「色んな国から来た人たちと出会いたい!」という気持ちは全く変わりませんでした。

APUに入っていなければ、この仕事はしてなかったなって思いますね。

そうですね、段階的に想いが固まって来たんですけど…入学前に≪将来やりたい職業≫が明確に見えていた訳ではありませんでした。
一番最初のきっかけは…、2年生の夏、福岡のRKB毎日放送でインターンシップをさせて頂いた時でした。報道、ドキュメンタリー、ラジオなどの番組制作の現場を色々見せて頂いて、そこで初めて《メディア》についての興味を持ちました。
その後、大学の授業で、NHK出身の橋本秀一先生(注1)の「アジアの政治経済」という授業を受講したんですが、これがすごく面白くて…。実際に特派員だった時の、例えばベルリンの壁の現物を持ってきて見せてくれたり、北京の天安門事件の自分のレポート映像を見せてくれたり…。その授業を受ける中で、自分の望むキャリアが《メディア》という方向に向かい始めました。
さらに、3年生の時、市岡康子先生(注2)という大ベテランTVディレクターの方が担当して下さるゼミを選びました。(実は、テレビの世界に入ってから、市岡先生が本当に凄い方だと知ったのですが…汗)。そのゼミでは、自分たちでカメラを持って大分の村に入って、ドキュメンタリーの映像を撮るようなゼミだったんですね。このゼミに入って、明確に「この道でやっていきたいな!」という気持ちが固まりました。
論文と映像作品を提出しなければならない卒業制作では、カンボジアのストリートチルドレンの実態に迫るという題材を選び、4年生の夏、私はカンボジアに40日間くらい滞在して、ストリートチルドレンをずっと追っかけていました。実際の作業は一人だったんですけど、APUのカンボジア出身の学生が、せっかくの帰省中にも関わらず、通訳を手伝ってくれました。最終的に「この職業でいく!」という覚悟をしたのはこの時です。
そう振り返ると、APUに入っていなければ、この仕事はしてなかったなって思いますね。

ニュース現場での葛藤

そうですね、まぁ、最初はAD(アシスタント・ディレクター)からで…。しかもドキュメンタリーがやりたいと思って入社したのに、最初は芸能ニュース担当で…。私、全然、芸能人なんて知らなかったんですよね(笑)。
報道に移ってからも、犯罪被害者の方への取材とか、被災地での取材とか、なかなかその…自分の中で『どこまで踏み込んでいいのか?』という葛藤はずっと続いていました。

私がやっていたディレクターという仕事は、一緒に1つのものを創り上げるために、カメラや照明、音声という様々な分野のプロの方々に、ディレクション(指示)する仕事なんですが、たまには自分一人で、カメラを持って出掛けることもありました。

APUの学生時代に抱いていた想いを、今やっと、カタチにできているなぁ!

去年は海外ロケが結構あったんですけど、今年(2010年)9月に放送されたテレビ東京のドキュメンタリー番組『封印された三蔵法師歩の道~シルクロード30,000キロに挑んだ男』で、中国から始まり、中央アジアまで行き、インド、バングラデシュまで訪れるという企画の中で、私は中央アジアのキルギスを担当・取材をさせて頂きました。
この取材で初めて、『APUの学生時代に抱いていた想いを、今やっと、カタチにできているなぁ』と感じることが出来ました。
それは、APUで知り合った友達の国が抱えている問題を紹介することであり、逆にその国が持っているとても素晴らしい文化を伝えることです。そういうことを伝えたいと思って私はテレビの世界に飛び込んだので、今回の取材では非常に充実感を味わうことが出来ました。日々の事件や事故の報道の中ではあまり感じることが出来なかったものだったので…(笑)。
私がAPUの国際学生の故郷を訪れた時、彼ら彼女たちは一生懸命、自分の国のことを自慢するんです。キルギスで出会った現地の通訳やガイドの方々も同じで、"是非、キルギスのことをこういう風に伝えてほしい"という想いをストレートにぶつけてくれました。
もちろん、良い面ばかりは出せる訳ではないのですが、違う国の人たちと一緒になって、その国を伝える楽しさを、5年目になって、ようやく体験することができました。

自分自身の考えをストレートに表現することが良しとされていた環境

私は今、東京で暮らしているんですけど、何となく世界が狭いというか、価値観が皆似かよっているなって感じるんですよね。
APUでは、それぞれの個性が本当に豊かで、それは国際学生(留学生)だけではなく、日本人も各自が自分自身の考えを持っていて、さらに、それを表現することが良しとされている環境でした。
東京にいると、こんなに沢山の人がいるのに、意外と『みんな同じ方向を向いている』ような感じがして、すごく息苦しくなったことがあります。
たぶん同期(1期生)の中にも、卒業して東京の企業に入社し、そういう意味で苦しんでいる人もいるんじゃないかと思っています(笑)。
最初は上手く適応することに難しさを感じていた私も、途中からは二重人格みたいになって、もともとの自分と、仕事の時の自分とを切り替えることができるようになりました。

これは本当にAPUに来ないと聞けない話だなって思いました

実は社会人になって3年目に、仕事でもAPUに戻って来たことがあったんですよ。まだ ADとして、TBSの『みのもんたの朝ズバッ!』という番組を担当していた時のことです。今でも尖閣諸島などの問題が中国と日本の間に存在していますが、あの時は、小泉元首相の靖国参拝に対して、激しい反日デモが上海で起こっていました。
番組では、色んな国の人たちの意見を集めようということになったのですが、東京で様々な国の学生を集めるより、「福澤のとこ(APU)に行けば、一発で色々取れるはずだよな。お前行ってこい!」ということになって…、APUキャンパスで国際学生に話を聞くという企画を担当させてもらいました。
その当時、APUの学長だったカセム学長にもインタビューさせてもらったのですが、実は私、その時が初対面だったんです。(私の時代は坂本学長でした。)
私は取材をさせてもらう側の1人として、仕事として伺ったのですが、カセム学長は、一緒にいたクルーの人たちに「彼女(=私、福澤)はうまくやってますか?」と尋ねて下さり、私を最初からこちら側(APU側)の人間として扱ってくれたのです。それが、とても印象的でした。

このAPUでの取材は、本当に感動的なものでした。
あるイランの国際学生がインタビューに答えてくれました。
「イラン・イラク戦争の時に、イラクから自分の近所の町が爆撃を受けて、僕の友達が亡くなりました。だけど、《9・11同時多発テロ事件》以降、イラクがアメリカから攻められるのを見て、僕はその時、イラクの人を助けたいと思ったんです。そう思えたのも、僕はこのAPUで世界中の素晴しい友達が出来たからだと思います。」って言ってくれたんです。
そして、最後に、「だから中国人も日本人も、もちろん過去の歴史はちゃんと勉強した上で、今の人たち同士で友好関係を築くように努力しなければいけないんだと思います」と結んでくれました。
これは本当にAPUに来ないと聞けない話だなって、私はその時思いました。その当時、「中国ってひどい国だなぁ」という雰囲気が日本にもあったんですよ。番組のコメンテーターの人の中にも「許せない!」っていう感じの人が多かったんですけど、APUの国際学生のインタビュー映像が流れた後は、結構みんなシーンっとなっちゃって…(笑)。「仲良くしなきゃ…」みたいな(笑)。本当に、これは素晴しい取材だったと思いましたね。

(これは番組では使えなかったんですけど、)インタビューでカセム学長が話してくれた言葉を今でもはっきり覚えています。
「こういう風に同じ場所で暮らせば、一緒に暮らした人・勉強した人が、今戦争で被災を受けていると思うと、みんな助け合おうって思うんですよ。それを実践する大学がAPUなんです。」
実際に、インタビューを受けてくれた学生さんたちも同じように答えてくれました。
政治の表舞台に立たなくても、私は報道という立場で、そういう人たちの気持ちや考えを世の中に《伝える》という醍醐味を、改めてその時にAPUで感じることが出来ました。私にとって、これ以上魅力的な仕事は、多分ないんだろうなって思っています。

APUで学んだことを、社会人として実践できるような人間になりたい

(取材があるということで、)それをずっと考えながら今日飛行機で来たんですけど…(笑)。
手段はどういうカタチであっても、やっぱり、APUで学んだこと、(前述の)カセム元学長が仰ったようなことを、社会人として実践できるような人間になりたいですね。
抽象的で本当にすみません(笑)。
学生の頃は様々な討論(ディベート)をして、自分たちの考えをぶつけ合ったりすることもありますけれども、でもそれは、普通にそこで終わりますよね。
それを言葉の段階から、勉強の段階から一歩超えて、実際に、社会に影響を与えられるようなことを続けていきたいです。
世界各地の紛争を解決するだとか、平和を守るだとか、環境を守るだとか、子供たちを守るだとか、海外の文化を伝えるだとか…。
それがテレビなのかどうかは分からないですけど…。

とにかく、ここAPUで沢山の人に出会って、一緒に何かをやる!

私は本当に、様々な出会いが1つ1つ繋がって、今の仕事にたどり着いたんです。
最初はポツポツと《点》だったものが、気が付いたら繋がって《線》になっていて、最終的に出た答えが、《何かを映像で伝える》ということでした。
今すでに目標を持ってる人は、その道を邁進したらいいと思いますが、まだ何もやりたいことが見つかってない人は、とにかく≪ここAPUで沢山の人と出会って、一緒に何かをやる≫ことをオススメします。勉強でもいいですし、サークルでもいいと思います。
その中で、常に将来についての目的意識を考えながら過ごしていると、そこから何かポロっと生まれると思うんですよね、…ポロっと(笑)。APUってそんな場所なんです。
食堂に行っただけで、あんなにも色んな国の人がいる空間なんて、東京にもないと思いますし、海外にもまず無いんじゃないかなぁって思います。ここには 《小さな地球》があるんですよ。

注1
橋本秀一先生(元NHK放送文化研究所主任研究員、すでに退官されています)

注2
市岡康子先生(元映像プロデューサー、すでに退官されています)
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